サーフスキーに乗るきっかけは
僕が習慣としているサーフスキー。もともとはライフセービング活動の一環で参加していたラーフセービングスポーツの競技会のなかでその存在を知りました。
その中のいち種目に「アイアンマン(いまではオーシャンマンという名前になっています)」という競技があります。それは「泳ぐ」、「レスキュー(パドル)ボードを漕ぐ」、「走る」、そして「サーフスキーを漕ぐ」、この四つを一人で連続して行なうものです。
この競技「アイアンマン」に出場したい。でもそのためにはサーフスキーに乗れないとダメだ。
それが、僕がサーフスキーを始めた動機です。
泳ぐのは遅い、ボードもそこそこ、そんなライフセービングスポーツの選手としては三流以下の僕でしたが、「ライフセービングスポーツをやっているからにはこの全てを行なう過酷な種目に出場したい」という一念でした。アラサーの頃までアイアンマンレースに何度か出場してきましたが、結局は鳴かず飛ばずの順位しか得られなかったわけですが(苦笑)
そもそもボードを一所懸命漕いでいた
学生時代、ぼくはレスキューボード (マリブボード、パドルボード) を漕ぐことに情熱を傾けていました。
当時の自分なりに一所懸命に取り組んだことで、世間的には大したことではありませんでしたが、小さな成功体験を得ました。
それはライフセービング活動をするなかで最初の心の拠り所になりました。
21歳の夏、その拠り所だけを抱えて熱川温泉海水浴場に、救助資格を持った初めてのライフセーバーの一員として立ちました。
そこからその拠り所に、喜びも悲しみも一切合切、積み重ねていまがあります。
僕の拠り所は熱川ライフセービングクラブです。
このクラブを続けてきた僕という1人の人間に一枚一枚積みあがっている薄皮を剥がしていくと、いちばん下にある根っ子の部分からは、20~21歳の時にボードレースに情熱を傾けていた自分の想いが出てきます。
それが僕の根っ子にある大切な、暖かいおもい。
31歳の夏、夕方の練習中に左肩を怪我しました。そのまま秋の競技会シーズンを過ごして腕が上げられないくらいに悪化させてしまいボードを漕ぐのが厳しくなりました。
ちょうどその頃は仕事が忙しく、また仕事自体が楽しくて打ち込んでいた側面もありましたが、なかなか良くならない肩の故障もあってボードを始めとしたライフセービングに必要なトレーニングから離れがちでした。
サーフスキーを漕ぐことは当時の僕にはボードを漕ぐよりも肩への負担が少ないアクティビティでした。なんとかこなせるものでした。
それに他のいろんな動機も重なって三十代後半にサーフスキーを漕ぐことに熱中しはじめました。
熱中が高じて、ハワイで開催されている島から島に渡る海峡横断レース、「モロカイチャレンジ」を目指すようになり、2009~2011年の三回出場しました。
このレースは直線距離53kmの海峡を渡るので、北に膨らんだり南に膨らんだりして、ルートによっては50km台後半の距離を漕いだかも知れません。
三回ともに5時間半前後のゴールタイムでした。年々準備の中身を厚くしたつもりでした。しかしレースのコンディションの波が高いときも、波があまりないときも似たようなタイムでゴールしています。工夫をして準備を整えたはずなのに毎回似たような結果が出たことに、なんだか人生の教訓を感じたりもしました。
それからはこの3回の思い出と共に、サーフスキーをフィットネスの一つとして日々楽しく漕ぎ続けて暮らしています。
それからはこの3回の思い出と共に、サーフスキーをフィットネスの一つとして日々楽しく漕ぎ続けて暮らしています。
4回目
事務所を作って自営するようになって、毎年なんとなく目指してはいながらもモロカイチャレンジに再挑戦できる余裕がありませんでした。いま考えれば真剣に「行く」と決めなければ元来がキツイことが苦手な僕は流されてしまって当然でした。
行くとなれば遠征費は安くはないですし、事務所は一週間近く休まなくてはならないし。
去年の秋、今年を睨んで仕事諸々の予測を立てたときに、多少の無理を乗り越えれば2015年は再挑戦できる。そう判断しました。
そして去年の11/1からモロカイチャレンジに出場するつもりで練習を始めました。
この数年、僕は何かのレースに出るためにサーフスキーを漕いでいたわけではありませんでした。毎年なにがしかのレースに参加はしていますが、順位を狙ったりタイムを競ったりする意識はあまりありませんでした。サーフスキーを漕ぐことがただ楽しいから。
離れた海岸まで漕いで行ったり、熱海の沖に浮かぶ初島に渡ったり、遠く沖から眺める伊豆半島の美しさに感動したり。多摩川で明けゆく空が、黒から藍色になり薄くオレンジがかるあの風景に出会えることが好きで。
そしてサーフスキーを漕ぐことで繋がった友人の数々。彼らと過ごした幾多の時間。
それがただただ楽しいからでした。
でもいまは5月30日を目標にしています。この数年の自分が積み重ねてきた薄皮の数々は、幸せの色を塗り込められてとても鮮やかな色彩です。それの上にまた違う色味を重ねるために残り三ヶ月を懸命に過ごそう。
そう考えてました。
とはいえ僕は元来が辛い練習に耐える心が弱くて厳しいメニューには耐えられないんです。だから2月末に宮部コーチに尻を叩いてもらうようお願いしたばかりでした。
でもいま思う気持ちは違います。
モロカイチャレンジでは、一瞬も弱気になることなく漕ぎ切ってみせる。
弱気なんて見せられません。
かれに。
ただひとつ、それだけです。
いま僕はサーフスキーばかり漕いでいます。
心の根っこにあるパドルボードへの愛着を仕舞い込んで。
昨秋からボードについては可愛い後輩たちに指導することを喜びにして想いを遂げてきました。
ボードが好きな若者がぼくの熱川ライフセービングクラブにはたくさんいるんです。
もっと楽しさを教えてあげたい。24年前の僕が感じたような。いや、それ以上の達成感を掴んで欲しい。
そう思っています。
2月まで思っていた以上に、そう思い、胸に誓いました。
この誓いを忘れないように。
何かに吐き出さないと居られなかったので今日はダラダラとここに書き記しました。
おい、N。
一緒に渡るぞ。