僕は会社を自分ひとりで営んでいます。
5年計画には社員を迎える展望を持っています。
計画がいまの思惑に近い到達度を描いたら
3年後には1人迎えたいところです。
さて、どうなることやら。
そのときにこれを読んで答え合わせしましょう。
亡き父も会社を営んでいました。
僕が物事ついた頃には経営は厳しくなりつつあったようです。
それでも柱の事業以外にも
小さな案件でさまざまな分野に挑戦してました。
昭和四年生まれで予科練経験者の
頑固なカミナリ親父でした。
僕は怖がりつつも反発して育ちました。
浄水設備のコンサルや工事受注を長くメインにしていたので
自宅には作業スペースがあり
たくさんの工具がありました。
いろいろいじっていたので
いろんな工具の使い方はなんとなくわかります。
父は社員を徐々にリストラしていって
最後は自分ひとりになりました。
自宅に事務所がありましたが
社員がいなくなったので
それを3部屋に改築して下宿にしました。
その工事を手伝わされました。
とても嫌でした。
自宅は当時には珍しいRC3階建てで
屋上がありました。
そこにも小屋を建てて下宿にしました。
その工事も手伝わされました。
とても嫌でした。
お前は長男なんだから
家のことをやらなきゃいけない。
が口癖で
建物の簡単なメンテナンスをやらされました。
なにか故障すると父はたいていのものは直してしまいました。
その手伝いをさせられて
そのうち修理は僕の役目に。
戸締り確認はお前の役目だ。
水道や電気を無駄に使うな。
共用スペースを整頓しろ。
ほんとにうるさかったなぁ。
外階段の掃除から錆びた箇所の塗り直し。
ドアやら建具やらの調整やら補修。
下宿の家賃徴収と帳簿付け。
店番や仕入れのお供。
ホームセンターへ買い出しなんかは日時茶飯事。
ほんと嫌でした、当時は。
日常的に掃除したりペンキ塗ったり
トンカチ振り回したりノコギリで切ったり
部屋や小屋を建てるのを手伝ったり。
いま考えると
そういうことをやってきたおかげで、
素人に毛が生えた程度ですが
家や建物の簡単な補修や
不具合対応は
たいてい自分でなんとかできますし、
建物以外の生活一般で起こるアクシデントも
自分でまずなんとかしようとがんばります。
そういう
高校生になるまでに躾けられたことのどれもが
知恵と工夫で
なんとかする、なんとかなる、
という体験だったわけです。
その
全てがこれまでの人生に活きています。
父は僕が30歳のときに亡くなりました。
10年おきに
だんだん父に似てきている自覚が増してきました。
父をみていて
会社を営んで苦労してるように思っていました。
だから自分はサラリーマンか公務員になるんだ
と思ったものです。
でも39歳で起業して
41歳からはひとりで会社をやってます。
親父のように。
零細企業ですから何度も何度もピンチに見舞われています。
そのたびに
思いついて実行することの多くが
親父が考えそうな、
やりそうなモノやコト。
それで凌いでいます。
チャンスにも、
通常運転なことにも
親父ならこうしそうだな
という選択や判断をしているような感じで。
メガネを新調したんですが
それをかけた顔は親父によく似てます。
やっぱり親子、
血が繋がっているからこうなるんですね。
あんなに嫌だった親父に似てきた自分が
嫌じゃないです。
化粧品の特許を取ったり
2,000坪の敷地に微生物の研究所を建てたり
花は咲きませんでしたが
野心的な仕事をしていた父には
スケールでは敵いません。
でも
ぼくなりに野望を抱いて
知恵と工夫で
その野望に近づいていこうと思っています。
親父は
あの働き者で努力家のお袋を捕まえたわけでして
いまだ独り者の僕はその点は完敗です笑
せめて
同じ野望を追いかけてくれる社員くらいは捕まえたいところです。
L-SHIPという船で共に航海する仲間を。
がんばろう
5年計画には社員を迎える展望を持っています。
計画がいまの思惑に近い到達度を描いたら
3年後には1人迎えたいところです。
さて、どうなることやら。
そのときにこれを読んで答え合わせしましょう。
亡き父も会社を営んでいました。
僕が物事ついた頃には経営は厳しくなりつつあったようです。
それでも柱の事業以外にも
小さな案件でさまざまな分野に挑戦してました。
昭和四年生まれで予科練経験者の
頑固なカミナリ親父でした。
僕は怖がりつつも反発して育ちました。
浄水設備のコンサルや工事受注を長くメインにしていたので
自宅には作業スペースがあり
たくさんの工具がありました。
いろいろいじっていたので
いろんな工具の使い方はなんとなくわかります。
父は社員を徐々にリストラしていって
最後は自分ひとりになりました。
自宅に事務所がありましたが
社員がいなくなったので
それを3部屋に改築して下宿にしました。
その工事を手伝わされました。
とても嫌でした。
自宅は当時には珍しいRC3階建てで
屋上がありました。
そこにも小屋を建てて下宿にしました。
その工事も手伝わされました。
とても嫌でした。
お前は長男なんだから
家のことをやらなきゃいけない。
が口癖で
建物の簡単なメンテナンスをやらされました。
なにか故障すると父はたいていのものは直してしまいました。
その手伝いをさせられて
そのうち修理は僕の役目に。
戸締り確認はお前の役目だ。
水道や電気を無駄に使うな。
共用スペースを整頓しろ。
ほんとにうるさかったなぁ。
外階段の掃除から錆びた箇所の塗り直し。
ドアやら建具やらの調整やら補修。
下宿の家賃徴収と帳簿付け。
店番や仕入れのお供。
ホームセンターへ買い出しなんかは日時茶飯事。
ほんと嫌でした、当時は。
日常的に掃除したりペンキ塗ったり
トンカチ振り回したりノコギリで切ったり
部屋や小屋を建てるのを手伝ったり。
いま考えると
そういうことをやってきたおかげで、
素人に毛が生えた程度ですが
家や建物の簡単な補修や
不具合対応は
たいてい自分でなんとかできますし、
建物以外の生活一般で起こるアクシデントも
自分でまずなんとかしようとがんばります。
そういう
高校生になるまでに躾けられたことのどれもが
知恵と工夫で
なんとかする、なんとかなる、
という体験だったわけです。
その
全てがこれまでの人生に活きています。
父は僕が30歳のときに亡くなりました。
10年おきに
だんだん父に似てきている自覚が増してきました。
父をみていて
会社を営んで苦労してるように思っていました。
だから自分はサラリーマンか公務員になるんだ
と思ったものです。
でも39歳で起業して
41歳からはひとりで会社をやってます。
親父のように。
零細企業ですから何度も何度もピンチに見舞われています。
そのたびに
思いついて実行することの多くが
親父が考えそうな、
やりそうなモノやコト。
それで凌いでいます。
チャンスにも、
通常運転なことにも
親父ならこうしそうだな
という選択や判断をしているような感じで。
メガネを新調したんですが
それをかけた顔は親父によく似てます。
やっぱり親子、
血が繋がっているからこうなるんですね。
あんなに嫌だった親父に似てきた自分が
嫌じゃないです。
化粧品の特許を取ったり
2,000坪の敷地に微生物の研究所を建てたり
花は咲きませんでしたが
野心的な仕事をしていた父には
スケールでは敵いません。
でも
ぼくなりに野望を抱いて
知恵と工夫で
その野望に近づいていこうと思っています。
親父は
あの働き者で努力家のお袋を捕まえたわけでして
いまだ独り者の僕はその点は完敗です笑
せめて
同じ野望を追いかけてくれる社員くらいは捕まえたいところです。
L-SHIPという船で共に航海する仲間を。
がんばろう